先日、津島神社に参拝して、しばらくして
地元新聞に興味深い記事が掲載されていましたのでご紹介します。
金竜のくしを盗んだと信長から犯人扱いされた秀吉
織田信長が西美濃を攻めるため、
墨俣(岐阜県大垣市)に陣を構えていた1563年(永禄6年)。
信長の部下が宿営中、金竜のくしを夜中に盗まれた。
自分のことを犯人扱いする声を聞いた秀吉は、
自らの出世に響くことを心配し、
盗人を捕らえて冤罪を晴らそうと決意した。
盗品を換金すると考え、津島へ向かい、
質屋や豪商にくしの形状を詳しく伝え、
「もし預ける者がいればすぐに知らせよお。褒美に黄金十両を与える」
と約束した。
しばらくすると、くしを質屋に持ってきた人物がいると報告があったため、
知り合いの豪商とともに盗人を捕らえた。
秀吉はひとえに牛頭天王のご加護であると、心を尽くして、
その天王をまつる津島神社へ参詣。
盗人を津島の役人に引き渡し、信長のいる西美濃へ帰陣した
秀吉と津島神社
津島で盗っ人を捕らえたことが、
豊臣秀吉と津島神社(津島市神明町)の縁を深めるきっかけになったのだろうか。
境内には現在も秀吉とゆかりを持つ建造物が残る。
均整のとれた美しい建築様式が特徴で、
国の重要文化財に指定されている楼門は、秀吉の寄進と伝わる。
1941年に解体修理された際は、内部から1591、92年の墨書が発見され、
秀吉が生存していた時代と建築年代が一致。
信ぴょう性が高まった。
南門は秀吉の病気平癒を願い、
息子の秀頼によって98年に寄進されたとされる。
古文書によると、秀吉は大阪に拠点を移した後、
津島神社を京都・伏見へ移転させる計画を立てていた。
豪華なまきわら船を川に浮かべる祭礼「尾張津島天王祭」(現在)も、
関西を流れる淀川で行おうとしていた。
結局は神社関係者の反対もあり、移転を取りやめた。
郷土史に詳しい津島市立図書館の園田俊介館長によると
「織田家が津島神社を厚く信仰していたので、
それを引き継ぐ気持ちもあったと思われるが、
秀吉の信仰心はすざまじいものがあった」という。
愛知県奥三河に点在する津島神社
同じ、愛知県内の奥三河には
数多くの津島神社という名称の神社が存在する
その中でも昨年末に愛知県設楽町の神社で
屋根の改修工事の際、牛頭天王が発見された
設楽町長江の長江神社で十一日、本殿の改修完了に合わせ、
昨年十一月に発見されたばかりの秘仏、牛頭天王(ごずてんのう)像がお披露目された。
集まった氏子たちは、真言を唱え、
疫病退散の御利益があるとされる牛頭天王像に
新型コロナウイルス感染症の収束を願った。
牛頭天王像は改修工事で出てきた木箱の中から見つかった。
木製で高さ五十センチ。肌は赤色に塗られ、頭髪の間から牛の頭が顔をのぞかせる。
像の裏に墨の文字が残っているが読み取れず、制作時期は不明。
織田家の家紋が施されているが、その関わりや由緒も分かっていない。
長江神社は江戸時代まで牛頭天王社と呼ばれた。
1873年、明治政府の神仏分離令を受けて、
祭神を仏教色の強い牛頭天王から
素戔嗚尊(すさのおのみこと)に変更し、現在の名称に改称された。
氏子総代長は「近隣の町村では牛頭天王像を川に流したと聞いている。
神仏分離令の際、人の目に触れぬようしまい、
そのまま忘れ去られたのだろう」と推測する。
以下は特別に参詣させていただいた牛頭天王さん。
家紋は織田家の家紋であると同時に京都八坂さんの家紋
後に、師匠にみていただいところ
江戸時代のものか、
もしくは、このタイプはかなり、古いもので
途中で塗りなおしているのではないかとのこと。
修繕をした後も見られることから
江戸時代以前のものなど、かなり、古いものであろうとのこと。
コロナウィルスの流行直前に現れた牛頭天王様。
やはり、牛頭天王様には
不思議な力を感じます。
疫病退散はもちろん、
負け組を勝ち組に返上したい方には
ぜひ、ご参詣をおすすめします。
朝夕はめっきり涼しくなってきましたが、
台風の接近が気になります。
また、コロナの第三派がいつやってくるのか、
不安材料はたくさんあります。
今後も気をつけてお過ごしくださいね。
皆様と皆様の大切な方々が、
ご無事で幸せな夏を過ごせますように。
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